フアン・カルロス1世、前スペイン国王といえば、2020年夏、スペインから国外退去する、つまり事実上の亡命をするという発表が報道され、スペイン国内でも大きな驚きを持って連日メディアを賑わせた。

かつては「スペイン民主化の父」と呼ばれ、国民の人気も高かったフアン・カルロス1世だが、2012年頃からスペイン王室はさまざまなスキャンダルでメディアを賑わせることとなり、王室への国民の批判と反感の高まっていった。そのような王室のイメージを一掃しようと、2014年に王位を王太子フェリペ6世へ譲位したフアンカルロス1世だったが、新たにサウジアラビアの高速鉄道をめぐる取引仲介に対する見返りで不法に資金を得た疑惑が明るみに出て、その追及を逃れるためスペインを離れた、というのだ。

もともと、王政の廃止と共和制への移行を望む声も根強いスペインだけに、国民がコロナ危機であえぐ中、このような事態はスペイン王室の存亡の危機にもつながりかねない。

日本の皇室からは考えられないスペインの王室事情ではあるが、フアン・カルロス1世という人物の人生は、80歳を超えても波乱に満ちているようだ。

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亡命中にイタリアで生まれたスペインの王子

フアン・カルロス1世のフルネームは、フアン・カルロス・アルフォンソ・ビクトル・マリーア・デ・ボルボン・イ・ボルボン=ドス・シシリアス(Juan Carlos Alfonso Víctor María de Borbón y Borbón-Dos Sicilias)。スペインでは父方と母方のそれぞれの姓を継ぐ二重姓なので、つまり彼は父方のスペインブルボン家と母方の両シチリア・ブルボン家の二つのブルボン家を両親に持つ、欧州王族の中でもサラブレットの血筋を持って生まれたと言える。

とはいえ、その生まれは決して安定した状況とは言えなかった。

というのも、スペインは1931年からはじまる第二共和政の時代で、王政は終わりを迎えており、当時のスペイン王でフアン・カルロス1世の祖父アルフォンソ13世はローマへ逃亡していた。
そんななか、フアン・カルロスは1938年にアルフォンソ13世の四男フアン・デ・ボルボンと旧両シチリア王国の王族マリア・デ・ラス・メルセデスの間の長男として誕生した。

アルフォンソ13世

父のフアンには、死産の1人を除いて2人の兄がいたが、長男アルフォンソは貴賤結婚のため、次男のハイメは聴覚障害のために王位継承権を破棄していたので、事実上の王位継承者と目されていた。

少し話が前後するが、アルフォンソ13世は死の直前1941年1月5日に名目上の王位をフアンに譲ったが、これは亡命中のことであり、正式な王位継承とはみなされていない。(正式には孫のフアン・カルロスが王位を継いだとされており、父フアンは死後に「スペイン王フアン3世」と追尊されたのみ。)

そのため、フアン・カルロスも王太子が継承する「アストゥリアス王太子(プリンシペ・デ・アストゥリアス)」の称号は得ていない。

ともあれ、このようなスペイン王室にとっては非常に不安定な情勢下で、フアン・カルロスは亡命先で誕生し、1938年1月26日にローマのマルタ宮殿の礼拝堂でバチカンのエウジェニオ・マリア・ジュゼッペ・ジョヴァンニ・パチェッリ枢機卿、後のローマ教皇ピウス12世によって洗礼を受けた。

父のバルセロナ伯フアン・デ・ボルボンとフアン・カルロス

ヴィジュアル版 スペイン王家の歴史

フランコ政権とスペイン王室

一方で、スペイン国内では、第二共和政期は安定した状況は続かず、1936年からはいよいよスペイン内戦が勃発する。

マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府(共和国派、ロイヤリスト派)と、フランシスコ・フランコ将軍を中心とした右派の反乱軍(ナショナリスト派)の戦いは、人民戦線をソビエト連邦、メキシコと、フランコをファシズム陣営のドイツ、イタリア、ポルトガルが支持・直接参戦し、第二次世界大戦の前哨戦ともいわれる他国を巻き込んだ激しい様相を示した後、1939年に右派のフランコ将軍が勝利を収める。

その後、世界では第二次世界大戦がはじまると、スペイン王室は亡命先イタリアの戦火を避けて、スイスのローザンヌへ移り住む。

フアンは、当初はフランコを支持し、フランコ宛に手紙を送っているが、後にスペイン王位と君主制復活を公に公言し、フランコの体制を批難するようになっていた。

第二次世界大戦後、フランコの後継者としてスペインへ帰国

第二次世界大戦終結後も、引き続きスペイン王位の請求を続けるフアンは、フランコと会見する機会を持った。

フランコはリベラルすぎるフアンを危険視して、フアンのスペイン帰国を許可しなかったが、2度の話し合いの末、息子のフアン・カルロス王子んのみをスペインに呼び戻し、自らの後継者とするべく国内で帝王学を学ばせることとした。

一方で、フアンとしても息子をスペインに帰国させることで、スペイン王家復活の布石を打つ意図もあった。そのため、王子帰国に対するスペイン国内のメディアの反応などをかなり気にしていたようだ。

ともかく、大人たちの政治的な思惑により、1948年11月8日、当時10歳のフアン・カルロスは両親と離れてリスボンからマドリードへ向かう列車に乗り、生まれてはじめて祖国スペインの地を踏むこととなった。

ドラマ「EL REY」より

帰国後は、マドリード郊外にあるLas Jarillas(ラス・ハリージャス)で同級生たちと学びつつ、学業と並行してフランコと面会したり、王政復活の支援者などとの会見するなどの公務も行っていたようだ。

しかし、1949年5月にフランコが父フアンの王位継承を否定する声明を出したことで関係が悪化し、フアン・カルロスは、当時、両親の元に呼び戻される。

再びスペインへ

家族は当時、ポルトガルのエストリルに住んでいたが、その年の11月にフアン・カルロスの母方の祖父であるカルロ・タンクレーディ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエの危篤の報がセビージャから届く。両親はスペインへの帰国を希望したが、フランコはフアン夫妻のスペイン入国を許可しなかった。

そのこともあり、フアンは状況を変えるべく再びフランコに手紙を送り、フアン・カルロスと3歳年下の弟のアルフォンソをスペインへ送ることを決意する。

しかし、今度の教育の場はフランコの影響の強いマドリードではなく、サン・セバスチャンのミラマール宮殿となった。この宮殿は、フアン・カルロスの曾祖母のマリア・クリスティーナが1893年に建てたもので、その後アルフォンソ13世が相続したが、国王の亡命に伴い市の所有物となり、教育や文化的な目的で使用されていた。その後、フランコ政権になって再びスペイン王家に所有権が返還されていた。

サン・セバスチャンのミラマル宮殿

フアン・カルロスが、再び親元を離れてスペインに戻ったのは1950年秋で、ミラマールで弟アルフォンソと学ぶこととなった。その後、1954年には父フアンもスペインへの入国が許可される。

フアン・カルロスと弟アルフォンソ

高校卒業までミラマールでそのまま過ごしたフアン・カルロスは、フランコの意向により、後継者となるための準備として、1955年から1957年はサラゴサの陸軍学校、1957年から1958年はポンテべドラの海軍学校、1958年から1959年はムルシアの空軍学校で学んだ後、マドリード大学に入学することになる。

しかし、この間もフアン・カルロスの人生は決して平穏無事ではなく、かれの人生でも悲劇的、もしくは世間に疑惑を残す大事件が起こる。

拳銃事故と弟アルフォンソの死

1956年3月29日のセマナサンタの聖木曜日、当時スペイン王家が住んでいたポルトガルのエストリルのビジャ・ヒラルダと呼ばれる邸宅でその事件は起こった。

セマナサンタの休暇で帰省していた当時18歳のフアン・カルロスと弟アルフォンソが、リボルバー銃で遊んでいる間に、銃でアルフォンソが死亡する。

兄弟二人だけの部屋で起こった事件であり、片方は死亡し、ことの経緯の詳細は分かっておらず、大きな憶測を呼んだ。

当初、「王子二人がリボルバー銃を掃除している間に暴発し、アルフォンソ王子に当たり、数分後に死亡した」と偶発的な事故として発表されたが、翌日にはフアン・カルロスが拳銃を持っていたことが判明したことで、世論ではさまざまな疑惑が飛び交ったが、王子の庇護者であるフランコは詳細については沈黙を通した。

エストリルでスペイン王家が住んでいたVilla Giralda

後に、フアン・カルロス自身が友人のベルナルド・アルノソに、「弾が充填されているのを知らなかったフアン・カルロスが、ふざけて引き金を引き、それが壁に跳ね返ったものが弟の額を直撃した」と語ったとも言われている。その意図や真意、事故の詳細はともかくとして、今日では「フアン・カルロスが引き金を引いた」というのが定説のようだ。

ちなみにこの銃は、フランコからフアン・カルロスに送られたものだとされている。

また、ずっと後になってフアン・カルロス国王の譲位につながる2012年頃からの一連の王室スキャンダルのひとつに、フアン・カルロス国王の初孫、長女エレナ女王の息子フェリペ・フロイライン(当時13歳)が、猟銃であやまって自分の右足を撃ってしまう拳銃事故があるが、奇しくも、アルフォンソ王子が亡くなった年齢14歳と同じような年頃だったのも、なんとなく因縁めいている。

このように王位継承前も非常に劇的な人生を送っているフアン・カルロスだが、王位継承直後にも、スペインを揺るがした大きな事件が起こるのだが、少し長くなったので、一旦ここで切り上げて、続きは第二弾で書こうと思う。